『人間椅子 』とは
江戸川乱歩の短編小説『人間椅子』は、愛と狂気が交錯する怪奇譚です。表面的には恐怖小説でありながら、人間の欲望や孤独、そして芸術的陶酔が複雑に絡み合う物語でもあります。
ある日、人気女流作家である夫人のもとに、一通の奇妙な手紙が届きます。
その手紙には、椅子職人を名乗る男の、背筋が凍るような告白が綴られていました。
彼は、椅子の内部に自分の身体を潜ませるという狂気の発想に取り憑かれ、完成した椅子に身を潜めたまま、富裕層の屋敷に運ばれる日々を送ります。
暗闇の中で高貴な婦人たちが椅子に座るたび、彼は触覚や聴覚を通して、言葉では言い表せない恍惚感に包まれるのです。そして、夫人がその手紙を読み進めた末に辿り着く告白は――
📚 原文は青空文庫で全文公開中
探求×引用文×着想イラスト
「閨秀作家」という響き
美しい閨秀作家としての彼女は、此の頃では、外務省書記官である夫君の影を薄く思わせる程も、有名になっていた。
物語の序盤で登場する「閨秀作家(けいしゅうさっか)」という言葉は、古き良き時代の文人世界を感じさせます。
閨(けい):「女性の部屋」「女性」を意味
秀(しゅう):「秀でている」「優れている」という意味
この表現が、主人公の夫人がいかに高貴で、周囲から注目される存在であったかを示しています。
椅子職人の妄想と夢

一つの椅子が出来上ると、私は先ず、自分で、それに腰かけて、坐り工合を試して見ます。そして、味気ない職人生活の内にも、その時ばかりは、何とも云えぬ得意を感じるのでございます。
そこへは、どの様な高貴の方が、或いはどの様な美しい方がおかけなさることか、こんな立派な椅子を、註文なさる程のお邸やしきだから、そこには、きっと、この椅子にふさわしい、贅沢な部屋があるだろう。
現実とフィクションが織りなす狂気
椅子の中の恋(!)それがまあ、どんなに不可思議な、陶酔的な魅力を持つか、実際に椅子の中へ這入って見た人でなくては、分るものではありません。
それは、ただ、触覚と、聴覚と、そして僅かの嗅覚のみの恋でございます。暗闇の世界の恋でございます。決してこの世のものではありません。
これこそ、悪魔の国の愛慾なのではございますまいか。考えて見れば、この世界の、人目につかぬ隅々では、どの様に異形な、恐ろしい事柄が、行われているか、ほんとうに想像の外でございます。
現実世界の背筋が凍る事件
フィクションだと片付けられない、現実世界の類似事件も存在します。
エド・ゲイン事件(1950年代・アメリカ)
墓荒らしを繰り返し、皮膚で作った椅子や頭蓋骨の食器を制作。『羊たちの沈黙』のモデルにもなった有名事件。
ジェフリー・ダーマー事件(1980〜90年代・アメリカ)
殺害した男性の遺体を冷蔵庫で保管、頭部を標本のように飾る異常な嗜好を持っていました。
佐川一政事件(1981年・フランス)
食人というタブーを破った実際の事件で、「狂気の現実」を突きつけます。
創作の中の不気味な話
夢野久作『瓶詰地獄』
無人島で兄妹が狂気に陥る、手紙形式の小説。閉ざされた空間が狂気を加速させます。
カフカ『変身』
突然虫になった男が、家族の冷たい視線に晒されながら崩壊していく寓話的物語。
椅子の中の献身

私は、彼女が私の上に身を投げた時には、出来る丈けフーワリと優しく受ける様に心掛けました。彼女が私の上で疲れた時分には、分らぬ程にソロソロと膝を動かして、彼女の身体の位置を換える様に致しました。
そして、彼女が、うとうとと、居眠りを始める様な場合には、私は、極く極く幽かすかに、膝をゆすって、揺籃の役目を勤めたことでございます。
手紙に潜む「理由」
奥様、あなたは、無論、とっくに御悟でございましょう。
その私の恋人と申しますのは、余りの失礼をお許し下さいませ。実は、あなたなのでございます。
あなたの御主人が、あのY市の道具店で、私の椅子を御買取りになって以来、私はあなたに及ばぬ恋をささげていた、哀れな男でございます。
突然御手紙を差上げます無躾を、幾重にもお許し下さいまし。
私は日頃、先生のお作を愛読しているものでございます。別封お送り致しましたのは、私の拙い創作でございます。
御一覧の上、御批評が頂けますれば、此上の幸いはございません。ある理由の為に、原稿の方は、この手紙を書きます前に投函致しましたから、已に御覧済みかと拝察致します。
創作物だったのか~~~で終わるこの物語。
シンプルに考えれば、「ああ、新進気鋭の作家志望の人がいるんだな~」くらいで済む話ですが、どうしても疑問が残ります。
「ある理由のために、原稿の方は、この手紙を書きます前に投函」「態(わざ)と省いて置きましたが、」
この“ある理由”とは、一体なんなのでしょうか?
想像① 親しい知人説
夫人が椅子を購入した経緯や部屋の様子を詳しく知っていたことから、犯人は屋敷に出入りする人物、あるいは身近な知人であった可能性があります。
想像② 夫犯人説
外務省書記官である夫が、目立つ妻への嫉妬や支配欲から書いた可能性も否定できません。筆跡を隠すために第三者に代筆させたと考えると辻褄が合います。「自分にも小説くらい書ける」という主張や、「いつも澄ました顔の妻を恐怖させたい」という欲望。江戸川乱歩の作品には、女性に対する倒錯的な願望や、寝取られ願望など特殊な性癖がしばしば描かれているため、そうした解釈も成り立つのではないでしょうか。
想像➂ 女中説
屋敷に仕える女中が夫人に向けた執着心を抱えていた――という妄想も膨らみます。書いてる内容からして男性的なので可能性は薄いとは思います。夫と共犯だったら面白いかも?
読後の変化×学び
乱歩は、「想像すること」の恐ろしさと美しさを同時に描き出しました。
『人間椅子』は、単なる怪奇小説ではなく、欲望・孤独・愛情・狂気が渾然一体となった文学作品です。
その奥深さは、読めば読むほど新しい解釈を与えてくれます。
コメント