【深読み×絵】 芥川龍之介 『蜘蛛の糸』|  救済と因果応報をめぐる小さな物語 

読書スケッチ

『蜘蛛の糸 』とは

著者:芥川龍之介 ジャンル:児童文学 出版年  1918年(大正7年)、児童向け文学誌『赤い鳥』掲載

地獄の血の池に沈んでいる大悪党・カンダタ。
彼は過去にたった一度だけ善行を積んだことがありました。それは、道端で見つけた小さな蜘蛛を踏み潰さず、助けたこと。

その善行を見ていたお釈迦様は、極楽の白蓮の間から一本の銀色の蜘蛛の糸を垂らします。カンダタはその糸を掴み、必死に地獄から登りはじめますが――。

📚 原文は青空文庫で全文公開中

探求×引用文×着想イラスト

カンダタが蜘蛛を踏まなかった理由

「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。

想像① 気まぐれ
想像② 殺らなきゃ殺られる環境にいたカンダタは無為に殺される哀れな蜘蛛を自分のことのように思った

踏もうとしたのを止めただけで助けてやったは言い過ぎでは?とは思いますが、たとえどんなに小さな行動でも、お釈迦様はきっと見ている。その行為には必ず救いがある…そう思いながら生きていけば、自然と善いことを選ぶようになる気がします。

お釈迦様の救い

御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下なさいました。

御釈迦様が白蓮の間から地獄の底へまっすぐに蜘蛛の糸を垂らしている情景イラスト。芥川龍之介『蜘蛛の糸』の象徴的な場面。

地獄の情景と蜘蛛の糸

こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていた陀多でございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。

地獄について調べてみますと、血の池地獄は出産や月経の血で地を穢したという罪によって女性のみが堕ちるとされた地獄 とのこと。(ひどい)

カンダタは作中で「男」と明記されているので妄言ですが、もし劣悪な環境で生まれ、女性であることを隠して男として生きるしかなかったのだとしたら、お釈迦様の慈悲を受けられた理由も、少し違った角度で想像できます。

しかし、芥川龍之介の文章は芸術的であるがゆえに、純粋に情景描写を際立たせるため、血の池地獄という舞台を選んだのだろうと感じます。 

間違い?意図的?芥川龍之介の真意

ちなみに極楽にいるのはお釈迦様ではなく阿弥陀様なので芥川龍之介が間違っている…というお話もあるようですが、創作する上で血の池の方がいいな~とか子ども向けだし阿弥陀様よりお釈迦様の方が有名だしな~とかありよりのありな気もします。

お釈迦様は実在した仏教の開祖ですが阿弥陀様は時間や空間を超えてすべての人々を救う仏として後世に創作された存在です。そう考えると、創作上の神様よりも、実在したお釈迦様のほうが、芥川龍之介にとって信仰すべき存在として、より重みを持っていた可能性も無きにしも非ず…。 

私も今回の絵を描いていて、「お釈迦様、螺髪だけど長い髪にしちゃお!」とか、「地獄には星も月もないと書いてるけど、いや!ここは月が欲しい!月があった方が映える!!!でもなんか言われるかも…蜘蛛の糸が出現したときのみ現れる月ということにしちゃおう」と原作や世界観を捻じ曲げました。FGOでも男女逆転たくさんいるのでそういう創作の楽しさ、あると思います。

西洋と東洋の地獄観の違い

今回、地獄のお話をきっかけに「地獄の世界」をもっと深く学びたいと思い、せっかくなのでダンテの『神曲』の地獄と比較して図を作成してみました。 

東洋の八大地獄と西洋・ダンテ『神曲』の地獄を比較した図解。罪と刑の内容をまとめたチャート。


似ている点も多いですが、罪の基準には違いがあります。仏教の八大地獄では五戒や十悪業の破りが罪とされるのに対し、神曲の地獄では神への背反や愛の誤用、裏切りなどが罪とされます。この違いには、キリスト教が愛の教えを重んじるのに対し、仏教は自力で悟りを目指す宗教であるという根本的な宗教観の違いが如実に表れています。

ひとすじの光

血の池地獄で陀多が天上を見上げ、銀色の蜘蛛の糸が静かに垂れてくる瞬間を描いた『蜘蛛の糸』のイメージイラスト。

何気なく陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。

因果応報と救済の不可能性

自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。

カンダタは糸を掴み、必死に登ります。しかし他の罪人たちが後を追うのを見て、「これは俺の糸だ」と叫び、蹴落とそうとした瞬間――糸はぷつりと切れ、再び地獄に落ちていきます。 

仏教の教えでは、救済は「心と行動を変えること」でしか成し遂げられないとされています。
お釈迦様の慈悲は常に働いていますが、「気づき」が伴わない限り、糸は切れてしまうのです。

因果応報(いんがおうほう)…善い行いも悪い行いも、必ずその結果が自分に返ってくる。
縁起(えんぎ)…糸は因果によって現れた「縁」でしかなく、執着すれば逆に滅びを招く。

人間は苦しみを経験しても、そう簡単には心を変えられません。この物語は「救いようのない話」なのです。

『蜘蛛の糸』 をモチーフに― sasakure.UKの名曲

蜘蛛の糸の物語をベースに再構築された天才の曲をご紹介させてください。

蜘蛛糸モノポリー 作詞作曲:sasakure.UK

「…きっと其んな意図なんだ。」

蜘蛛を掴む様なモノガタリ

貴方が何様なんだとしても 救いの亡い莫迦だったとしても

千断れそうな愛の様な”賽”を 手繰り寄せたんだ

其の糸が地獄に照り返る “赤色”なんだと気付いて居ても

―僕は其れに縋る事しか 出来なかった訳ですから。

・糸=意図
・蜘蛛を掴む=雲を掴む
・血の池に反射されて赤色になっている糸=運命の赤い糸 

悪人の男の子が仲間を殺すことで女の子を助け、2人は恋に落ちた。命を救われた女の子にとっては男の子が神様。地獄から救い出してくれた男の子にとっては女の子が神様。歌詞が難しくてすべては読み取れませんが、儚く、美しく、悲しい…本当に出会えてよかったと思える一曲です。この曲に想いを馳せたのは12年前…  !!!!????? 

読後の変化×学び

  • 救済とは何か:他人を思いやる心を持たなければ、たとえ助けが来ても掴めない。
  • 煩悩の根深さ:糸を掴んだ瞬間、他者を蹴落とそうとする人間の本能。
  • 無常と縁起:糸は因果によって現れた「縁」でしかなく、執着すれば逆に滅びる。

知らぬ者はいないほど有名な物語ですが、改めて深く読み込んでみると、また違った風景が見えてきました。最高に楽しいお絵かきの時間とともに、何かがじんわりと心の奥に染み渡っていくようでした。

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